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新宿の街とファッションの変遷

 

 

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若者文化の発信地であった昭和の「新宿」

 

新宿の歴史は、江戸時代に宿場町が開かれたことからはじまりました。

内藤家が幕府に返上した土地の一部であったことと、甲州街道に設けられた新しい宿ということから、「内藤新宿」と名付けられました。

内藤新宿は、現在の新宿通り周辺にあり、物流の拠点としてにぎわいを見せていました。

 

明治時代に入ると、鉄道が乗り入れ、「新宿駅」が開業しました。

そしてその周辺には、さまざまな施設やお店が出来てきました。

大正時代から昭和時代にかけて、ますます新宿が発展していきました。

 

1950年代から1970年代の新宿は、特に文化の発信基地でした。

音楽、映画、演劇、美術の最先端が集まる場所となり、銀座から新宿へと若者達も移ってくるようになりました。

 

まず、1950年代半ばには、歌声喫茶の「灯(ともしび)」、「カチューシャ」が新宿に誕生し、ピアノやアコーディオンをバックに合唱する店が生まれました。

そして、1958年(昭和33年)に誕生したジャズ喫茶「アシベ」では、ロカビリーからカントリー、エレキバンドを経て、グループサウンズのライブに人々は熱狂しました。

さらに、低予算映画のATG(アートシアターギルド)の映画館である、「アートシアター新宿文化」では、ゴダールトリュフォー大島渚といった監督の映画が上映されました。寺山修司が前衛劇の上演をそのあとに行ったりもしました。

アンダーグラウンド蝎座」は、映画・演劇の実験劇場として出来た小劇場で、三島由紀夫がその名付け親でした。若松孝二監督の映画の上映などがありました。

「新宿風月堂」には、文化人が集い、語り合いました。

 

この頃の若者達は、ファッションでアイデンティティを主張するようになりました。

50年代後半から60年代前半にかけて、イギリスのチェルシー地区から生まれたストリートファッションが流行し、「スウィンギング・ロンドン」と呼ばれました。

「モッズ」と呼ばれる音楽を愛し、三つボタンスーツやミリタリールックを着たマッシュルームカットの若者が街を闊歩しました。

 

1967年(昭和42年)には、「ミニスカートの女王」のツイッギーが来日し、クレージュやマリークワントが発表したミニスカートが、大ブームになりました。

同年、新宿駅東口の広場には、サイケ族と呼ばれるヒッピーファッションの若者達が集まりました。

 

ヒッピー文化はアメリカ発祥で、ベトナム戦争の反対運動発端で、愛と平和を訴えました。

既成の文化、秩序に対抗する「カウンターカルチャー」にも含まれます。

Tシャツ、ジーンズや民俗風習、部族の衣装のフォークロアなどの服を身にまとい、刺しゅう入りのカフタン(トルコの民族衣装)、バンダナ、スカーフや、カラフルな花柄模様なども好まれました。

 

当時のファッションの移り変わりは、ビートルズのアルバムのジャケットを見ると、とてもよく分かります。

 

1970年代に入ると、新宿には高層ビルが建設され、副都心へと発展して行き、若者たちは、渋谷、原宿、六本木に集まるようになっていきました。

現在では、ショッピング街、歓楽街、オフィス街とさまざまな顔を持つ新宿は、さまざまな人々が集まる大都市となっています。

 

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新宿駅」を中心に発展したデパートとファッションビル

 

新宿の発展は、多くの鉄道が乗り入れる新宿駅を中心とした、デパートやファッションビルにルーツがあると言っても過言でありません。

それぞれの歴史や特徴について見ていきたいと思います。

 

◆ルミネ/NEWoMan (JR)

1885年(明治18年)に日本鉄道により、山手線が開業され、最初の新宿駅が設置されました。

大正時代末期に起こった関東大震災を境に、地盤の安定した東京西部に移り住む人が増加し、私鉄も乗り入れて、ターミナル駅となりました。

1925年(大正14年)には、鉄筋コンクリート2階建ての駅舎が完成し、駅前が発展し、市街地化していきました。

ダンスホールやカフェー・バーが集まるカフェー街がつくられ、文化人からサラリーマンまで多くの人が行き交いました。

 

戦後、構内に商業施設を設けた、現在の駅ビルである「民衆駅」が次々と誕生し、新宿駅も、

1964年(昭和39)年に民衆駅舎となり、新宿ステーションビルが完成しました。

新宿ステーションビルからマイシティを経て、現在はルミネエストとなっています。

この駅舎が出来たことにより、地価もぐんと上がっていきました。

 

1976年(昭和51年)には、新宿ルミネが誕生しました。現在は、首都圏のターミナル駅に数多くあるルミネですが、新宿が一号店です。

2016年(平成28年)には、南口にNEWoManもオープンし、話題のお店がたくさん入っています。

 

京王百貨店 (京王線

京王線の駅舎は、1915年(大正4年)の創業時は、路面電車の「新宿追分駅」で、新宿3丁目交差点南側にありました。

震災後に、100メートルほど東に移動し、さらに昭和に入り、新宿4丁目交差点近くに出来た、新宿ビルディングの1階にさらに移動しました。

こちらには京王電鉄の本社のほかに、呉服店や百貨店も入っていたそうで、大変活気があったそうです。

 

新宿ビルディングは、映画館を経て建て直され、現在は、京王新宿三丁目ビルと京王新宿追分ビルとなっています。

京王新宿追分ビルには現在、アメリカ発の人気ファストファッションブランドである、FOREVER21の店舗が入っています。

その後、「四谷新宿駅」、「京王新宿駅」と駅名を変更し、1945年(昭和20年)に現在の新宿西口に移転し、「新宿駅」となりました。

 

1960年(昭和35年)には、新宿駅西口の副都心化計画で、駅を地下化することになり、翌年の1960年(昭和36年)に京王百貨店がオープンしました。

京王百貨店は、関東で初めて、会員を集めて積立をし、積立額を上回る商品券を提供する、「友の会」を設立しました。

1994年(平成6年)には改装を行い、「新・大衆百貨店」をコンセプトとして、自社プライベート(PB)商品の開発にいち早く取り組み、独自色を出していきました。

40代から50代を対象にした「トライアングル」や、2センチ刻みのサイズ展開で裾直し不要の「レングスパンツ」、品目別の「スタイルブック」という売り場などがその一例です。

 

小田急百貨店 (小田急線)

小田急線の前身は、1923年(大正12年)に創業した小田原急行鉄道で、1941年(昭和16年)に小田急電鉄となりました。

戦時中は、大東急と呼ばれる吸収合併された東京急行電鉄となったことがありましたが、第二次世界大戦後に分離されました。

1950年(昭和25年)には、箱根登山鉄道に乗り入れ開始し、翌年の1951年(昭和26年)には、ロマンスカーが誕生しました。

新宿~下北沢~新百合ヶ丘~町田~江の島・小田原と、通勤に、観光に大活躍の路線です。

 

小田急百貨店は、1962年(昭和37年)に現在の小田急ハルクがある場所にオープンしました。

その場所は、1936年(昭和11年)までは東京地方専売局淀橋工場があった場所です。

1967年(昭和42年)には現在の場所に本館が完成しました。

有名ブランドが多く入るほかに、フランスの三ツ星レストランのトロワグロと提携したお店があり、人気です。

オープンモールのモザイク通りがあるミロードは、1984年(昭和59年)に完成し、20代~30代の年齢層が買いやすいブランドが多く入っています。

 

◆西武新宿ペペ (西武新宿線

現在、歌舞伎町にある西武新宿線の駅は1952年(昭和27年)に、暫定的に建てられた仮駅のはずでした。

しかしながら、1964年(昭和39年)の新宿ステーションビル(現在のルミネエスト)への延伸をスペース不足により断念してしまいました。

さらには、バブル期の現在のタカシマヤタイムズスクエアへの延伸も歌舞伎町商店会の反対などもあり、立ち消えとなり、現在の駅を恒久的に使用することになりました。

 

駅のショッピングセンターとなっている、西武新宿ペペは、1977年(昭和52年)に、プリンスプロムナード・ペペとしてオープンしました。

仕事帰り、学校帰りに手軽に立ち寄れて、無印良品ジーユーなども入っているのでとても便利です。

 

タカシマヤタイムズスクエア

1996年(平成8年)にオープンし、有名ブランドの他に、「紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA」や、ユニクロ東急ハンズニトリの大型店舗が入っています。

1964年(昭和39年)に新宿ステーションビルに出店出来なかったとのことで、念願の新宿進出となりました。

 

新宿伊勢丹

関東大震災後の建設ラッシュで1926(大正15)年に完成した「ほてい屋」に隣接した場所に、1933(昭和8)年に建てられたのが新宿伊勢丹です。

1935(昭和10)年には、ほてい屋を買収し、一体化する形で現在も建物が残っています。

新宿のランドマーク的存在の新宿伊勢丹は、いつの時代もあらゆる世代に圧倒的な支持を受けています。

 

メンズ館は、1968年(昭和43年)、本館北側に男性向け百貨店「男の新館」を開店し、紳士服は売れないというジンクスを打ち破りました。

さらに2003年(平成15年)に同館を改装し、「 メンズ館」としてリニューアルし、さらに人気に拍車をかけました。

 

伊勢丹といえば、丁寧な接客で、納得のいく自分だけの一着や一足が選べることで知られています。

独自のディスプレーや限定商品、オリジナル商品の「オンリー・アイ」を求めて、多くの人が新宿に足を運びます。

 

◆新宿三越

1923(大正12)年に新宿に進出し、「三越マーケット」として現在の追分交番の場所にオープンし、

新宿駅前のアルタの場所に移転し、さらに1930(昭和5)年に、新宿大通りに移転しました。

 

2005年(平成17年)には、ファッションビルに転換し、新宿三越アルコットとなりましたが、

2012年(平成25年)からは、ビックカメラユニクロがユニークな形でコラボレーションした「ビックロ」が入っています。

オリジナル商品などもあり、東京の新名所として観光客にも大変喜ばれています。

 

新宿マルイ

マルイが本格的に新宿に進出したのは、1962年(昭和37年)です。

「マルイヤング新宿」、「新宿マルイ カレン」があった場所が本館でした。

 

その後、1931年(昭和6年)からあった、劇場と映画館の「帝都座」が閉館し、その場所が現在の

新宿マルイ本館となりました。

新宿には「フィールド」、「マルイワン」、「インザルーム」など、数々のマルイがオープンしていきましたが、

新宿カレンをはじめとして閉館、テナントの移転などを経て、現在は新宿マルイ本館、アネックス、メンの3店舗となっています。

 

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新宿を代表するランドマークとその歴史

 

では、最後に、新宿といえばこの場所!というランドマーク的な場所についての歴史について紐解いていきたいと思います。

 

新宿御苑

内藤家の武家屋敷であった、土地と隣接地を合わせて、

欧米の農業の導入のため、明治5年(1872)に、「内藤新宿試験場」が完成しました。

そして、その機能の一部は移転し、新たに「新宿植物御苑」となり、植物や野菜、果物の研究が行われました。

さらに、植物御苑を庭園化し、皇室の庭園としての、「新宿御苑」が完成しました。

1949年(昭和24年)、「国民公園新宿御苑」として、一般開放されることとなりました。

 

◆高野フルーツパーラー

新宿御苑生まれのフルーツといえば、「マスクメロン」ということを、みなさんはご存知でしょうか。

農場試験場で品質改良され、栽培に成功したフルーツの王様です。

のちにフルーツパーラーを開いた「高野」が、1920年大正9年)に販売し、大隈重信が試食会を開いたところ、あっという間に人気になりました。

「高野フルーツパーラー」でパフェを楽しむ際には、新宿生まれのフルーツということを思い出してみてください。

 

新宿中村屋

クリームパン、純印度式カリー、ボルシチ、中華まん、水ようかんと、発祥であったり、名物の商品が多い新宿中村屋ですが、1909年(明治42年)に本郷から新宿に移転してきました。

創業者の相馬夫妻は芸術に造詣が深く、中村屋には、多くの芸術家が集まるようになり、「中村屋サロン」と呼ばれました。

碌山、松井須磨子高村光太郎など、数多くのあらゆる分野の才能あふれる人々の溜まり場となっていたのです。

大正時代には、ロシアの民族衣装である、「ルパシカ」を制服に取り入れ、話題になりました。

 

紀伊国屋書店

1927年(昭和2年)に、現在の新宿3丁目の場所で、読書好きであった田辺茂一が創業しました。

紀伊国屋書店にはギャラリーが併設され、文芸誌がつくられたりと、中村屋同様、小説家にとってのサロンのような存在でした。

1964年(昭和39年)に建設された、現在の紀伊国屋ビルには、演劇ホールの「紀伊國屋ホール」が併設され、1965年(昭和40年)には紀伊国屋演劇賞創設するなど、文化活動に貢献しました。

田辺茂一は、「わが町・新宿」という随筆集を出していたり、大島渚監督の映画、「新宿泥棒日記」に本人役で出演もしています。

 

新宿アルタ

新宿アルタは、1980年(昭和55年)にオープンしたファッションビルです。

お昼のバラエティ番組の「笑っていいとも!」の公開生放送が行われていた、7階にあるスタジオアルタ(現在はアルタシアター)があまりにも有名です。

もともとは、三越が経営する食料品店「二幸」があった場所で、待ち合わせ場所としてもよく知られています。

トレンドを押さえたカジュアルファッションブランドが多数入っています。

 

◆歌舞伎町 新宿ゴールデン街 

東洋一の歓楽街として知られる歌舞伎町は、角筈北一丁目という地名でしたが、芸術文化の街にしようと、歌舞伎座の誘致を希望していたことをきっかけに、1948年(昭和23年)に歌舞伎町となりました。

1956年(昭和31年)、新宿コマ劇場や、映画館の「ミラノ座」やアイススケート場「東京スケートリンク」を併設した新宿東急文化会館が完成しました。

演歌の殿堂だった新宿コマ劇場は、「新宿東宝ビル」に建て替えられました。

新宿東急文化会館は、スケート場をボーリング場にリニューアルし、「新宿TOKYU MILANO」として営業していましたが、2014年(平成26年)に閉鎖されました。

 

歌舞伎町1丁目にある新宿ゴールデン街は、戦後の闇市からスタートした飲食店街です。

花園神社近くにあり、木造長屋の飲食店が200件以上連なっています。文壇バーなどもあることから、文化人が集う場所として有名です。

現在に至るまで、サブカルチャーやアングラ芸術の発信地となっています。

ディープな雰囲気で外国人観光客も多く訪れています。

昭和の音楽や映像を流しているお店もあり、レトロなファッションで歩くのに違和感のない場所です。

 

新宿中央公園 都庁 新宿パークタワー

この一帯は、1898年(明治31年)から、1965年(昭和40年)まで「淀橋浄水場」がありました。

新宿中央公園」は、1968年(昭和43年)に都立公園として完成した都会のオアシスのような公園です。

そして、「東京都庁」は、1991年(平成3年)に丸の内から移転してきました。浄水場の高低差を利用したつくりになっています。

また、「新宿パークタワー」のあった場所はガスタンクがありました。現在、パークタワーには東京ガスショールームが入っています。

低層階にはコンランショップの本店が入っており、落ち着いた雰囲気でゆっくりとインテリア雑貨を選ぶことが出来ます。

こちらにはカフェも併設されていますので、立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

 

文化服装学院

「文化裁縫女学校」が1927年(昭和2年)に現在地に移転してきました。

1935年(昭和10年)には、日本で初めての法人認可の洋裁専門学校となり、

翌年の1936年(昭和11年)には、「文化服装学院」と改称され、「装苑」も発刊されました。

 

1955年(昭和30年)、日本建築で初の高層「円型校舎」が完成しましたが、1998年(平成10年)には21階建ての超高層の新校舎である「新宿文化クイントビル」に建て替えられました。

1958年(昭和33年)には、フランスの有名デザイナーのピエール・カルダン氏が来訪するなど、早くからグローバルな視点を持ち、ファッション教育の拠点となり、多くの著名なデザイナーを輩出しています。

 

新宿文化クイントビルには、文化学園服飾博物館が併設されています。

日本では数少ない服飾専門の博物館です。

「 ”衣” を通して日本と世界の文化を知る」をテーマに、年4回程、企画展も行われていますので、足を運んでみてください。

 

いかがでしたでしょうか?

さまざまな文化の発信基地であり、魅力たっぷりの新宿は、リンクスタッフィングの登録拠点でもあります。

登録の帰りに立ち寄って、今回ご紹介した場所でひと息ついてみるのもいいのではないでしょうか。

新宿で働きたい方も、是非ご相談ください。お待ちしております!

 

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