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表参道・原宿の街とファッションの変遷

 

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表参道・原宿の街のルーツは「明治神宮」と「ワシントンハイツ」

 

「原宿」という地名の由来は、鎌倉時代から戦国時代に、鎌倉時代の宿場町として機能していたことから来ています。

江戸時代には、この辺りには忍者で有名な伊賀衆の屋敷が江戸の防衛のために置かれました。
また、安芸広島藩浅野家の広大な屋敷もありました。この屋敷内には「隠田の池」と呼ばれる池もありました。

農民たちは、渋谷川での水車を使った精米、製粉を行い、生計を立てていました。
江戸の郊外である穏田村原宿村がこの辺りにはあり、田園風景が広がっていました。
この頃の光景は、葛飾北斎富嶽三十六景、「隠田の水車」で描かれています。

明治時代、廃藩置県により、幕府領から東京府管轄の土地となりました。
そして、1906年明治39年)には、山手線の原宿駅が開業しました。

大正時代に入り、明治天皇昭憲皇太后を祭神とする神社である「明治神宮」が国民の要望により、1920(大正9)年に完成しました。
明治神宮の大鳥居からのびる、参拝のために整備された道路が「表参道」です。
街路樹として、ケヤキが植えられました。
小高い山は切り拓かれ、石垣で土留めをしました。
その石垣は、現在のポール・スチュアート青山店に今も残っています。

関東大震災の翌年、1924年大正13年)には、原宿駅の2代目駅舎が誕生しました。
イギリス風の外観のモダンな木造駅舎は、第二次世界大戦の戦火を逃れ、都内最古の木造駅舎として現役で利用されています。
原宿駅は、2020年の東京オリンピックを控え、駅舎が新しくなる予定です。


昭和時代に入ると、表参道に、同潤会青山アパートが完成しました。

1927年(昭和2年)のことです。
鉄筋コンクリート造りで、水道、水洗トイレ、ガス設備まで備えた当時としてはかなり画期的な高級アパートでした。
こちらも戦火に耐え、1960年代頃からは、主にアパレルショップやギャラリーとして利用されてきましたが、2003年(平成15年)に解体されました。


その跡地には、2006年(平成18年)に安藤忠雄による設計で、複合施設「表参道ヒルズ」が完成しました。
東側には、青山アパートを忠実に再現した「同潤館」という棟があります。
表参道のシンボルと言える建物であり、常に多くの人で賑わっています。

東京大空襲(山の手大空襲)で、表参道では多数の被害者が出てしまい、焼け野原となりました。
ケヤキ並木もほとんど燃えてしまいました。
華やかな表参道交差点付近に今も残る石灯籠にはその悲しい爪痕が残っています。
ケヤキはまた植え替えられ、ケヤキ並木は現在も表参道のシンボルとなっています。
冬にはイルミネーションが街を彩り、多くの人が魅了されています。

戦後、現在の代々木公園とNHK放送センターがある場所には、アメリカ軍の兵舎・家族用宿舎である「ワシントンハイツ」がありました。
ワシントンハイツに住む外国人向けに、「キデイランド」は雑貨や玩具店として誕生しました。
また、「紀ノ国屋」は日本で初めてセルフ方式を導入したスーパーマーケットをオープンしました。
そして、「オリエンタルバザー」はワシントンハイツ入居者の土産物店として表参道での営業が始まりました。

1958年(昭和33年)には、「原宿セントラルアパート」が、現在は東急プラザがある明治通りとぶつかる交差点に、米軍関係者のアパートとして誕生しました。
翌年、1959年(昭和34年)には、原宿地区初のモデル・クラブであり、外国人モデル事務所のはしりの「エディ・アラブ・モデルプロダクション」が発足しました。
表参道特有の異国のような雰囲気はこの頃に出来ていったのです。

 

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東京オリンピック」が発展のきっかけに

 

表参道・原宿の界隈が大きく変化するきっかけとなったのは、1964年(昭和39年)の東京オリンピックの開催です。
ワシントンハイツは、日本に返還され、その場所に、選手村や国立代々木競技場、国際放送センター(現在のNHK放送センター)が建てられました。
翌年の1965年(昭和40年)には、住居表示が変わり、それまでの「竹下町」「穏田」「原宿」は、渋谷区「神宮前」に変更されました。

渋谷川は暗渠化(地下化)され、キャットストリートが誕生し、小さなショップが軒を連ねました。
「参道橋」や「原宿橋」の親柱は今でもひっそりと残っています。

1965年(昭和40年)、高級マンションの先駆けである、「コープオリンピア」が竣工されました。
またこの頃、ラフォーレ原宿のある場所には、日本初のドライブイン「ルート5」が完成しました。
ここでは裕福な若者達が夜な夜な集まり、彼らは「原宿族」と呼ばれました。

原宿セントラルアパートには、クリエーター達が続々と入所し、ここに事務所を構えるのがステイタスとなっていきました。
カメラマンの事務所や、雑誌の編集部が入り、1階にある喫茶店、「レオン」には多くの文化人が集いました。
そして、1966年(昭和41年)には、デザイナーズブランドの先駆けである、「マドモアゼルノンノン」がオープンしました。
その後、おしゃれなブティックが続々とこの近辺にオープンしていきました。

1970年代に入ると、「an・an」、「non-no」といったファッション雑誌が創刊し、表参道、原宿のお店も取り上げられました。
こうした雑誌を片手に、「アンノン族」と呼ばれる若い女性が街を歩くようになりました。

この頃の原宿セントラルアパートにはアパレルショップが出店するようになりました。
1970年(昭和45年)、ロリータファッションの「MILK」がオープンしました。
さらに1973年(昭和48年)、ブティック街の「原宿プラザ」も完成し、若いデザイナーが才能を競い合いました。


その他にも、表参道のマンションの一室から、「マンション・メーカー」と呼ばれるデザイナーズブランドが誕生していきました。
DCブランドの先駆けである「BIGI」、インディアンジュエリーの「ゴローズ」と、次々と原宿の顔となるショップが出来ていきました。

ファッションビルも続々と完成していきました。
まず、1971年(昭和46年)に、竹下通りの入り口付近に、「パレフランス」というファッションビルが出来ました。
ヨーロッパの高級ブランドや、家具などを扱い、1階はオープンカフェとなっていました。
続いて、1978年(昭和53年)には、「ラフォーレ原宿」がオープンし、新進気鋭のデザイナーズブランドが入り、話題を集めました。

こうして、1970年代後半から、表参道・原宿は日本最大の流行発信地となっていきました。

 

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流行発信地としての表参道・原宿。そしてこれから・・・

 

では、表参道・原宿から生まれた代表的なファッションについて見ていきましょう。

竹の子族・ローラー族(1980年代)

1980年(昭和55年)頃、日曜・祭日の代々木公園横の歩行者天国ホコ天)は、「竹の子族」と呼ばれる中高生であふれました。
彼らは、派手な衣装に身を包み、ラジカセから流れるディスコサウンドやテクノミュージックに合わせて、チームで「ステップダンス」を踊っていました。
竹の子族の由来は、竹下通りにあった、「ブティック竹の子」の衣装を着ていたことによると言われています。
アラビアンナイト」のような原色でだぼっとしたシルエットの衣装でした。
実際は、高価だったため、この衣装を真似た手作りのものを着ていたようです。

ブティック竹の子のある竹下通りは、この頃から若者のファッションの聖地となりました。
80年代後半には、タレントショップがこの通りを席捲し、観光客も押し寄せ、ますます大賑わいとなりました。
クレープを食べながら、かわいいファッションを求めてブラブラ歩くスタイルが定着しました。

翌年の1981年(昭和56年)には、「ローラー族」が現れました。
「原宿クリームソーダ」という1950年代のアメリカンファッションをコンセプトとしたショップがその流行の発信地のようです。
ロカビリーミュージックに合わせ、男性は革ジャンにリーゼント、女性はポニーテールにサーキュラースカートを身につけてツイストを踊りました。

◆裏原系・ストリートファッション(1990年代)

1990年代前半、原宿通りやキャットストリートにデザイナーズブランドが続々とオープンし、裏原宿系ブランドと呼ばれました。
1993年(平成5年)「A BATHING APE」のデザイナーのNIGOと「UNDERCOVER」のデザイナーの高橋盾が共同で構えたショップの、「NOWHERE」が先駆けと言われています。
その後、藤原ヒロシによる「GOODENOUGH」「HEADPORTER」、宮下貴裕による「NUMBER(N)INE」、滝沢伸介による「NEIGHBORHOOD」と続々とオープンしました。
限定物のTシャツ1枚に行列が出来ることもしばしばありました。

90年代は裏原宿をはじめとして、ストリートファッション全盛になりました。
男性は「smart」、「Boon」、女性は「Cutie」「Zipper」「SEDA」などのストリートファッション系の雑誌が教科書がわりでした。
板橋よしえによる「Candy Stripper」もオープンしました。

◆原宿系・青文字系ファッション(1990年代~現在)

1995年(平成7年)にアートディレクターの増田セバスチャンが、「センセーショナル・ラブリー」をコンセプトとした、「6%DOKIDOKI」がオープンしました。
「センセーショナル・ラブリー」とは「衝撃的なカワイイ、度を超えたカワイイ、可愛すぎるモノ・コト」を意味するそうです。
こうして、「原宿KAWAII文化」が生まれたのです。
篠原ともえによるポップなファッション「シノラーファッション」をはじめとして、「原宿系」ファッションは一大ブームとなりました。

2000年代に入ると、コンサバで女性的なファッション雑誌、「JJ」や「Cancam」といった「赤文字系雑誌」に対し、
個性的で中性的な「Zipper」や「Cutie」「mini」などの雑誌を「青文字系雑誌」と呼ぶようになりました。

原宿はこのような「青文字系」ファッションの発信地となっていきました。
ゴスロリやビジュアル系、ストリート系などさまざまなジャンルを含みます。
雑誌では、DJ・ヘアメイク・アーティストなどのクリエイティブな職業を持った読者モデルが紙面を飾っていました。

青文字系として有名なのは、この言葉を生み出したアソビシステム所属のきゃりーぱみゅぱみゅです。
世界ツアーを成功させ、「原宿KAWAII文化」を世界中に浸透させました。
海外のセレブやアーティストからも、このような原宿系・青文字系のファッションは絶大な人気を誇っています。

このように、大きなファッションのブームを巻き起こした表参道・原宿ですが、現在でもさまざまな顔を持っています。

竹下通りは、今も変わらず、中高生を中心とした若者達で賑わっています。
そして、表参道から青山にかけては有名ラグジュアリーブランドの旗艦店やハイセンスなセレクトショップが立ち並び、表参道ヒルズがランドマークとなっています。
ファッションが多様化する中、個性的なファッションの原宿系・青文字系の若者達も闊歩し、エネルギーに満ち溢れています。
目新しい海外のパンケーキやポップコーンのお店や雑貨店もこのエリアに出店し、行列は絶えません。

さまざまな顔を持ち、常にトレンドの最先端を行く場所として君臨している表参道・原宿は、2020年のオリンピックを控え、どのように変化していくのでしょうか。
今後、どのような顔を見せてくれるのか楽しみです。

表参道・原宿の街とファッションについて見てきましたが、いかがでしたでしょうか。
このエリアの魅力を再発見しに出かけてみませんか?

 

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